「人を信じる」ということの重大さ (前編)

様々な理不尽を引き受ける代わりに、
安易に人を信じられなくなった。
何故ならば、すべての人がそうだとは言わないけれども、
理不尽というのは、大概、人が、持ってくる。
ニコニコしながら、持ってくる。
優しいふりして、持ってくる。
優しいふりなら、誰でも出来る。
だから、優しいは、信じない。
他人の優しいは、信じない。
もっと、自分を、信じましょう。
(私の手記より引用)

この記事は2部構成です。

物事を信じる≠人を信じる

物事を信じるということと、人を信じるということは違います。多くの人々が、これらを混同して解釈しているのではないかと思うのです。しかし、これらは本来、区別しなければならないものです。つまり、信じるべき物事は、述べられた物事から適切に取捨選択して収集するに過ぎないものであり、それを述べた人や組織をひっくるめて信じるべき対象にするのは極めて危険なのです。

常に人の言うことが正しいとは限らないと、誰もが分かったつもりでいることと思います。それではどんなことが正しくて、どんなことを信じれば私達はより良く生きていけるのか。それを理解するために、右も左も分からない私達はまず、身近なところによりどころを求めるのでしょう。それは家族だったり学校の教師だったり、先輩や友人だったりします。そんな折、ある人が、あるいはあなたと切っても切れない関係の人が、あるいは力のある人が、あるいは魅力的に見える人が、正論を、あるいは素晴らしい物事を、あるいは自分にとって都合が良いと思えることを、あなたに告げます。そして、そのような物事を信じるということで、あなたはその人を信じるようになります。

  • あの人は今まで気付かなかったことを私に気付かせてくれたから、あの人を信じればきっと幸せになれると思うの…。
  • あの人は正しいことを言っているから、きっと信じるに値する人なんだろうなぁ…。
  • 僕の先生は厳しくて、時には僕を殴ったりもしたけれど、時にはとても良いことを教えてくれたから、あの先生を信じてずっと頑張ってきました…。

これはなにも身近な人だけではありません。政府、宗教、マスコミ、私達を取り巻く様々な組織も、同じように「正しいこと」や「素晴らしいこと」や「自分にとって都合が良いと思えること」を利用してその組織やその長を信じるように仕向けてきます。しかし本来は、その人がいくら正しいことを言っているからといって、あるいは素晴らしいことを言っているからといって、その人を信じて良いという理由にはなりません。

物事を信じるということと、人を信じるということは、水と油のようなものであり、本来性質の異なるものです。そして、人を信じるということは、物事を信じるということ以上に、重大な問題なのです。

何故ならば、人を信じるということは、その信じる対象となる人が自分自身に与える価値観の一部または全部を盲目的に受け入れるとうことにつながり、そのことによって自分自身の価値観や視野に影響を与えるからです。

信じる相手が非常に広い視野を持ち、あなたを尊重してくれるということが確実であるならば、まだ救いはあるでしょう。しかし多くの場合、とりわけその人を信じることを強要されるような場合は、その信じさせられる人の価値観は、特定の物事に固執していたり、歪んでいたり、極めてネガティブなものがベースにあったりするなど、概して狭い視野に基づくものが多いものです。

そして、そのような価値観を半ば強制的に押し付けられることによって、自ら本来の価値観が不都合な方向へ歪められてしまうため、結果として、自らの視野や可能性・選択肢を狭めることにつながってしまうのです。

なぜ信じるということに細心の注意を払えなくなったのか

物事を信じるということと、人を信じるということを混同することで、私達は今まで世の中の多くの(一見すると)見えざる制約に束縛されてきたのです。人は何故、物事を信じることと人を信じることを混同するようになるのでしょうか。その背景には、自分の心の支えを奪う巧妙な環境や社会背景があります。

マスメディアや学校・政治・行政・警察などの影響が依然として強いのは、大勢の人々に対して、彼らが信じるということについて錯誤を起こさせることに成功し、それが維持されていて、そしてそれらを成し遂げるために、人々を否定し恐怖を与える仕組みが少なからず関与しているからではないでしょうか。

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人を信じるということは、ある意味でマジックミラーを内張にしたガラス瓶 (外から中は見えるが、中から外は見えない) の中に身を投じるようなもので、人を信じてしまうと、その人を信じなかった場合にどうなるのかということがわからなくなります。その人を信じるということは、その人の価値観を受け入れるということだからです。すると、その人の価値観に応じて自分自身の視野を偏らせることになるため、自分自身の視野がその分狭くなってしまうのです。

私達を支配する存在はこのことをよく熟知しており、私達が信じるべきものを限定させるように仕向けることで、特定の人・組織を信じる方に価値観を偏向させようとしています。

人々が信じるべきものを限定するために、次のような仕組みが整っています。

恐れによる束縛・認知的不協和

私達の心の支えを奪い混乱させることで、物事を的確に区別するという基本的な能力を奪います。この中には強迫的観念や裏切りといった行為が含まれ、世の中において非常に良く機能しています。

小学校時代の私は、「孤独でいることは寂しいことであり、人として悪いことである」という強迫的観念に、あまりにも縛られ過ぎていました。当時、ある友達がいて、彼と仲良くなりたいと思っていました。彼は私のことにはあまり興味・関心はなく、私が彼の興味・関心に合わせなければならないということが多くありました。それでも双方の価値観が一致することがある程度はあったのですが、彼はその一部分だけで満足しているように、私は感じていました。

そんな彼が、ある時から、君の陰口や悪い噂があるよと言って、それらを面白がって紹介するようになりました。今の私であれば、その時点でそんな彼とは絶交しても良かったようなことですが、当時の私は「友達を失う」ことに恐怖を感じていたので、嫌々ながらもその話に付き合ってしまいました。私がそのような話に対して否定的な見解を言ったり、都合の悪いことを言えば、彼はすぐに逆ギレして怒り狂っていました。

そうしているうちに、この人は自分と友達になってくれた優しい人だと無理矢理思うようになり、嫌々その人のやり方に合わせながら、歪な人間関係を続けていました。本来、友達になることと、その人の優しさなどは関係ないのです。そして当時の私は、「孤独への罪悪感」という強迫的観念に苛まれるあまり、人間関係の中にある些細な安堵感に固執し、自分の外側にある価値観などを見失っていたので、彼が「私の陰口をひけらかす」ことで私に対して面白がる動機や、そのような歪な関係を続けていきたいということに対する動機を理解できなかったのです。

私達がこうした恐れによる不安の状態から自らを守るために、現状に辻褄を合わせようとします (認知的不協和)。これにより、物事を的確に区別するという観念を忘れさせ、やがては奪われてしまいます。認知的不協和の具体例を端的に挙げると、次のようになるでしょうか。

  • あの人は自分と仲良くしてくれた・信頼してくれた
  • →あの人に怒鳴られた・裏切られた・騙された
  • →せっかくあの人は自分を信頼してくれたのだから自分が悪かったんだ、もう自分を責めるしかない

価値観の狭窄・選択肢の制限

人の価値観を狭めることによって、人を支配・操作しようとする存在は、効率的に人を支配・操作できるようになるのです。教育や社会生活の仕組みの中には、「我々は常に正しい。あなたは常に間違っている」というメッセージが、柔軟に仕込まれています。

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子供の頃、自らの直感に基づく表現が、否定されたり、軽蔑されたりした経験は多いことと思います。テストで正解かどうかで評価し○×を付けるような現在の教育方針は、正しい知識を身につけるという建前の下で、子供に対し自己否定させることを促します (注:正しい知識を身につける方法はテストに限られているわけではありませんし、これを否定するものではありません) 。「読書感想文」や「税に関する作文・標語」などは、概ね自由に意見を表現させるという建前の下で、支配者の行為を絶賛させるプロパガンダとして強行されます。テレビを付ければ、ニュース・健康番組・サスペンスドラマといったコンテンツで不安を煽り、それらに対して何が正しいのかについての価値観を植え付けようとします。そして、彼らは何の責任も取りません。

啓蒙しながら洗脳する

9割型の真実を突きつけ、残りの1割で人を洗脳しようとするという悪質な事例もあります。この手口も基本的には、真実を信じさせることで人を信じさせようとするところから来ています。これらは、自己啓発をしてより良く生きたいと思っている人々や、マスメディアには簡単に騙されない人々に対して仕組まれた罠のようなものです。

これらの中には、正論を振りかざして、あるいは正論だけを切り取って、人を洗脳するだけでなく、自己正当化したり、自らの非を隠すこともあります。酷い場合では、その人を信じなければ生きていけないくらいに人を追い込むこともあるでしょう。実は瓶はマトリョーシカのように入れ子構造になっていて、瓶の外側には、さらに突破しなければならない瓶があるのです。(この辺りについては別途記事にできればと思っております)

この記事は2部構成です。

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