「人を信じる」ということの重大さ (後編)

真実そのものを信じるということと、
真実を言っているその人を信じることは、
区別しなければならない。
人を信じるということは、
物事を信じるということ以上に、
生きとし生ける人々にとって、
重大な問題だからだ。
だから私は、色々な人たちから適材適所で、
真実を拾い集めつつも、
その真実を言った人を信じるべきかについては、
いつも頭を悩ませることだし、疑ってしまう。
(私の手記より引用)

この記事は2部構成です。

何を信じるべきなのか

まずは自分自身を信じることが極めて重要です。それまで他人を信じることをやめる時に、自分自身を信じることができなければ、それ以外を信じることをやめた時に、「もう何もかも信じられない!!」といって、自暴自棄になってしまいます。自分自身を信じる根拠はただ一つであり、それは (一流の詐欺師やサイコパスなどの例外を除いては) 自分自身を騙すことができないということです。

自分自身を信じる上で克服すべき課題とは何でしょうか。それは、周囲に振り回されてないがしろにされてきた自分独自の価値観の「軸」を、取り戻し、良く理解し、それを利用していくことにあると思います。具体的には、次のようなことが問われるのではないかと思われます。

  • 幼い頃に自分が何をしたかったのかなどといった、基礎的な価値観を思い出し、それに従うことができるか
  • 自らの何かを尊重してくれる外部の存在と、自らの何かを犠牲にしようとする外部の存在を、見抜くことができるか。またはそれをしようとしているか
  • 自分で自分を尊重することを諦めない

その上で、自分の軸を次のような観点から利用することができるかについても問われると思われます。

  • 自分の欠点を理解し、それぞれに対して改善可能か見極め、改善できるものは改善するよう努めているか
  • 報われないかもしれない孤独な努力をするのに、モチベーションを生み出し、それを維持することができるか
  • 多様な価値観を受け入れることができるか

他人を信じるか信じないかの判断基準の例

自分を信じることができて、初めて他人を信じることができるかどうかをうまく判断することができるようになります。
どんな時に他人を信じてもよいのかについては、次の基準が適切ではないかと思われます。

  • 自分を尊重してくれる人
  • 自分の視野を広げること (価値観の拡張) を許してくれる人

他人を信じるという行為は、上記の基準に基づいて信じても問題ない範囲から徐々に少しずつ行うべきです。さらに、その「信じても良い」範囲においては、その人から騙されても構わないと覚悟を決めることも必要です。そのためには騙された際の被害が軽いのか、重いのかを勘案する必要もあるでしょう。

中には他人を尊重するふりをする人間も多くいますので、何事も過信してはならないと思います。自分を信じることが不十分であると、相手のさりげない親切な態度ですら「過信」してしまうので、そのような傾向が残っているならば、まずは自分を信じるという修行に徹するべきです。

逆に、どのような人を信じてはならないかに関しては、以下のような基準が挙げられます。

  • 一般に、自らの目的のために何かを犠牲にすることを厭わない存在、犠牲から気付くべき重要なことを学ぼうとしない存在を信じてはならない
  • 人をバカにする気質のある人は、一切信じてはならない
  • 自分の価値観を相手に押し付ける兆候を持つ人は、その人自身と、その価値観について、信じてはならない
  • 自分が選べるはずの選択肢を枯らそうとする人を信じてはならない
  • 少なくとも、自らは上記のような「信じてはならない」タイプの人間にならないように努めること

人を信じないことで見えてくるもの

繰り返しになりますが、前述の瓶の例にあるように、人を信じてしまうと、その人を信じなかった場合にどうなるのかということがわからなくなります。つまり、安易に人を信じてしまうよりも、安易に人を信じないでいた方が、理解することのできる物事の視野が広くなるのです (ただし、まず最初に自分を信じることができるのが大前提です)。

これは、人を信じることによって何らかの屈辱や挫折を味わった結果、人を信じることに懐疑的になり、安易に人を信じないという方向へ改心したという経験があれば分かることです。

違いを意識して区別することが重要

世の中に溢れる情報には、信じるべきものとそうでないものが巧妙に入り交じっているので、信じるべきものとそうでないものを、自らの基準に当てはめて明確に区別することが必要です。

例えば、次のような事象があります。

  • 話題を通わせるということと、心を通わせるということは違う。誰もがきっと、話題を通わせることで、心を通わせられると思っているか、心を通わせた気になっているんじゃ無いだろうか。だからこそ、寂しい。
  • 丁寧に接するということと、優しく接するということは違う。例えば、人は丁寧な態度で脅迫・誘導することさえある。
  • 事実と感情を区別する。子供の頃、立場が上の存在から、感情的ないしは威圧的に事実を叩き込まれてきたために、大人になっても、事実と感情を混同してしまうことがある。例えば、先輩から具体的なことを注意されたのだが、その口調が感情的ないしは威圧的だったために、人格否定されているような気がする。

この記事の前半で挙げた「人を信じる≠物事を信じる」に限ったことではありません。これらに関する具体的なことは、また別の機会に書けたら書くとして、これらもある意味では「信じる」ということに通じるものがあると思います。

誰かと人生を共にしていると、本来ならば区別すべき色々なことをついうっかり混同してしまうというのはよくあることです。私達が最低限、自分を守って生き抜くためには、例えば「感情(気持ち)と事実を区別する」「目的と手段を区別する」といったように、「物事を混同しないで、区別して捉えていく」ことを、ことあるごとに意識しながら生きていくことが大切なのではないかと思います。

この記事は2部構成です。

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