「分かり合える」という幻想

6年前、どうしても欲しかった大切なものがあった。
あれから6年、苦労した末、僕はそれをやっと手に入れた。
「やっと手に入ったね。良かったね。もうこれで安心できるね…」
そう思ったはずなのに、僕の心の内側では未だにそれを欲しいと思っている。
僕の中の「子ども」は、手に入ったはずのそれを未だに欲しいと思って嘆いているんだ。
僕の中の「子ども」は、6年前に手に入らなかった悲しみをずっと抱えたまま、
6年間ずっと耐え抜いてきたけれど、まだこの時も、同じ悲しみをずっと抱えたままでいるんだ。
もはや、改めてそれを手に入れることだけでは、癒えない悲しみを…。
自分どうしのことでさえ、分かり合えていなかったなんて。
この苦しみを、どうしてくれよう…。
(私の手記より引用)

「人はお互いを分かり合うことができる」ということを信じて、今日まで行きてこられた方は非常に多いのではないかと思います。私も例外ではありませんでした。何故なら私達は、教育や人間関係などを通じて、他人との関係とは本来そういうものだと教わってきたからであり、それ故に、様々な経験を通じてもなお、それは真実であるということを信じ続けてきているからです。

さて、しかし、それは真実なのでしょうか。あくまで個人的な経験から言えば、それはもはや偽りであると感じます。しかし、この世の仕組みは、「人はお互いを分かり合うことができる」ということが真実であらねばならないということを前提で成り立たせていることは、確かなことです。

「人はお互いを分かり合うことができて当たり前」であるならば、人に対して「わからせることができる」のだから、「ある価値観を人は理解しなければならない」のは当然ということになります。これを大前提とした上で、大衆を束縛するために、法律や宗教や教育は確立されてきたのです。特に、「人はお互いを分かり合うことができない」場合に関して、強烈な恐怖心を抱かせることによって、この思い込みは強化されるように思われます。赤ん坊が母親の愛情を満足に得られないことや、「独りぼっちは寂しい。会いたい」といったフレーズの歌詞が蔓延していると言った背景が、これを助長させているように思われます。

ここで不思議なのは、「自分たちが押し付けたい価値観は理解されて当然」であると頑に考えている人々は、本来「人はお互いを分かり合うことができて当たり前」であったにも関わらず、価値観を押し付けられる側の気持ちや主張などを頑に理解しようとしないことです。このことは社会の仕組みにおける、権力や序列の形成を助長しています。

たとえ法律や宗教や教育が、一見して正しいことを主張し、理にかなっているように見えたとしても、「ある価値観を人は理解しなければならない」という前提の下で、それらを定める存在の思うがままに、価値観を書き換えては植え付けるということができてしまいます。昨日まで正しいとされていたことが、今日からは誤りとされます。そのことに疑問を持つと、自分たちの生が脅かされるので、「物事は互いに理解されて当然なんだ」という大義名分の下、人々は否が応にもそれに従っていきます。

分かり合えるはずなのに、どうして自分たちのことを分かろうとしないのだろうという思い込みから、諍いや戦争や収奪が発生します。特に、序列化された相手の地位や身分を推し量って、自らの都合が通じない場合に、その報復として、それらは起きます。

  • 「お前は(理解できるはずの)学校のルールに従わなかったから、居残りさせる。お前が悪いんだ」
  • 「お前は(理解できるはずの)集団行動に背いて一人だけ違った行動をしたから、罰を与える。お前が悪いんだ」
  • 「お前は(理解できるはずの)この村の掟を守らなかったから、村八分にする。お前が悪いんだ」
  • 「お前は(理解できるはずの)神の教えに背いたから、いまに罰が当たる。お前が悪いんだ」
  • 「お前の国は(理解できるはずの)我が国の要求を受け入れなかったから、戦争を始める。お前らの国全体が悪いんだ」
  • 「お前は俺たちが定める、理解すべき大切なルールを理解しようとしなかった。だから死んで当然だ」

「人はお互いを分かり合うことができるはずだ」ということを信じていると、自分が本当に困った時に、絶望します。

まだ私が学生だった頃、私は強迫観念にかられ、色々と無理をさせられていたようでした。そんな折、移動中に目的地への定刻を気にするあまり、急いでしまい転倒し大怪我をして、残念ながら自分の体の大切な一部を犠牲にしなければならない出来事がありました。その瞬間の音と、その瞬間の痛みを、未だに忘れることができません。事故が起きた瞬間、私は冷静に、「いや、これは夢だ。間違いない」などといった身勝手な現実逃避の思いを抱いていました。しかしそこから時間が経つにつれ、自らの犯した過ちに起因する逃れようのない精神的な苦しみに苛まれるようになりました。

私はその苦しみを癒そうと、周囲の人にその事故と怪我の件について話し、同情を求めました。おそらく、方法はたくさんあったのかもしれません。しかし当時の私は、そうするしかないくらいに、精神的に追いつめられていました。しかし残念ながら、人の痛みや苦しみというのは、自分が同様の経験をしない限りは、理解することはできないのです。いや、たとえ過去に同様の苦しみを味わったことのある他人と出会ったとしても、喉元過ぎれば熱さを忘れるという言葉にもあるように、自らが現在進行形でその苦しみを味わっている場合は、お互いを分かり合うことは難しいのかもしれません。

「お互いを分かり合える」というのは、単純なことを言えば、私達の持つ数ある価値観のうち、ごく一部の価値観だけが、お互いに共通していたに過ぎないということなのです。それはたとえ、愛し合っているとか、一体感を感じているとかいうことでさえ、そうなのではないかと思われます。

私は以前、自分の気持ちをもっと人にも理解して欲しいと思っていたことがありました。しかし、そのようにして人付き合いに望んでいる限り、どことなく関係がうまくいかず、不満は募り、相手にも迷惑をかけていたようでした。

挫折も限界に来ていたある時、私は「もはや自分の気持ちを相手は汲むことはできないのだから、自分の気持ちを相手に理解してもらおうと思うことはやめよう。その代わりに、自分の好きなことを実現して自分を満たすようにしよう」と考えるようになり、そのようなスタンスで生きるようになりました。今まで諦めきれなかったことを、すんなり諦めることにしたのです。そして、やがて以下のようなことが腑に落ちるようになりました。

  • 人はお互いに分かり合えないことが分かったからこそ、少なくとも自分のことを分からなければならないという状態に迫られる。
  • 人はお互いに分かり合えないからこそ、自分がどうしたいか、自分がどうあるべきかについて、本気で模索するようになる。
  • 人はお互いに分かり合えないからこそ、自分を守るということに対して、より真剣になれる。
  • 人はお互いに分かり合えないからこそ、万が一人に頼らなければならない時に、明確な目的を持てる。

そうしているうちに、お互いにある特定の価値観に限り、それらが特定の人と理解し合えるのだという、ある種の「法則」を理解できるようになりました。人付き合いは、その価値観の範囲を理解している場合に限り、少しずつ深まり、滞りなく進んでいくのです。おそらく、普通の人ならなんてことはない、身もふたもない話なのかも知れません。しかし、世の中にはその身も蓋のない法則を理解するために、人生をかなり遠回りしたり、膨大な苦労を詰まなければならない(私のような)人々も、いるのです。

お互いに理解し合えることなど、ごくごく限られたことに過ぎません。表の座の人々は、お互いに理解しなければならないという強い固定観念を振りかざして世の中を動かしています。ですが、お互いに理解し合えるというのは幻想なのだということを知り、受け入れることが、本当にお互いの理解を促すことなのではないかと、私は信じています。

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コメント

  1. R.O. より:

    こんにちは(*^-^*)いきなり寒くなりましたが風邪引いていませんか?続けてのブログ更新、コメント送るのが遅くなってしまいましたがしっかり読ませて頂いています(’-’*)♪車の件は最終的に事なきを得て、スゴいと思いました。私なら言われるがままですね…わかりあうことというのも難しいですね私も人付き合い上手くないですから…何十億地球に住んでて全員とは会えないから、生きてるうちに出会える人とはやはり何らかの意味があるのかな?でもほんとに、世の中の既存の価値観や常識、押し付けに飲まれず、負けず生きていきましょーね。きっと少しずつ私達が生きやすくなる時が来ますよね。風邪引かないよう気をつけてくださいね(^-^)/

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