良く生きるために「衣食住」と並んで大切なもう1つのこと

久しぶりのブログ更新になります。つまり、お盆の間は休みを取っていたということになります。
さて、とあるブログでは「工作員ブログは、お盆や年末には更新が滞るらしい」という話をしておられるようですが、このブログを工作員ブログだと思ってくださっていた皆様。残念でした。このブログは工作員ブログではありません。勿論、記事を書くことで(アフィリエイト以外で)何らかの組織から報酬を受け取るということは一切しておりません。悪しからずご了承下さい。

本日は、疲れた私が勝手に考えた、人生をより良いものとするために必要な、衣食住+αに関するお話です。

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日本では、生活の基本的な要素を「衣食住」という言葉で表現してきました。
すなわち、私たちが生き抜くために必須となること、それは、何らかの栄養を取ること(食)、体温を保つために何かを身に纏うこと(衣)、そして、雨風をしのぐために眠りをとること(住)です。はい、異論はありません。「最低限」生きるために、それらはとても大切なのです。生まれてから死ぬまで、人はそれをやり続けます。

生きるために、世界中の誰もがそれをやっています。生きるのが楽しい人は勿論、明日にでも死にたいと思っている人でさえ、みんながそれをやっています。

拘置所で、いつ殺されるかも分からない死刑囚にも、衣食住があります。
刑務所の囚人にも、衣食住があります。
人質にされた子供達にも、恐らく、衣食住はあるかもしれません。

つまり、「衣食住」という言葉だけでは、「良く」生きるために必要な大切なことを心得るには、必要ではあっても十分ではないのです。私たちがより良く生きるためには、衣食住と並んで「癒し」が必要です。「衣食住+癒」←これ大事。

私たちが最低限生きるために、生まれてから死ぬまで衣食住をやっていくのと同じように、私たちは自分なりに、より「良く」生きるために、生まれてから死ぬまで、人は自分の責任で、自分なりの癒しをやっていく必要があるのです。

では、「癒し」とは、何でしょうか。それは誰かが与えてくれるものなのでしょうか。「衣食住」は私たちの身体の維持を目的としたものであるのに対し、「癒し」とは、私たちの精神の維持を目的としているのではないでしょうか。

「衣食住」は、ある程度形が決まっています。お金で買えます。けれども「癒し」は、人それぞれであり、あなたにとっての癒しは必ずしもお金で買えるとは限りません。時として、お金で買えるものをうまく組み合わせて何か複雑なものを創造しなければ、自分の癒しを実行できないという場合もあるかもしれません。

自分を癒すための入り口として、誰もが理解できるような共通項は多少はあるでしょう。けれども、本質的に自分をそこから癒すことができるのは、自分自身の中にある、固有の価値観だけなのです。だから、自分自身の癒しを見つける必要があります。たとえその癒しの内容が、あなた以外の誰かが理解できない奇妙な物事であったとしても、それが他の誰かや何かをあからさまに犠牲にするものでないならば、堂々とそれをやっていく必要があると、思うのです。「衣食住」は誰かが与えることも可能ですが、自分にとって正確な「癒し」を与えることができるのは、他ならぬ自分自身だけなのです。

自分だけの癒しを見つける

幼い自分に耳を澄ます

私たちは幼い頃、自分が何を好きだったかを知っていました。それを理解してくれる大人達が、きっとどこかには、いたのかもしれません。けれども殆どの大人達は、自分たちのことで精一杯だったりするので、多くの場合、幼かったあなたの好きなものを理解することはできなかったのではないでしょうか。そうして幼い自分を抑圧することで、私たちは大人になってきました。自分自身以外の誰も手をつけなかったことを、今、自分自身で責任を持って手を付ける必要があります。幼い自分が本当は何をしていたかったのかを思い出すのです。この具体的な手段として、イメージトレーニングが役に立ったりします。

常識を疑う

例えば時には、頑固な価値観を持つ嫌な年寄りの言動に耳を傾けるのも有りかもしれません。例えば、あなたが大人の男性だったとして「いい大人の男が、少女漫画なんか読んで、けしからんっ!!(怒)」などという言葉に同意できず異常に不快に感じるのなら、あえて少女漫画を大量に読んでみるのが手でしょう。勿論、そいつのいないところでね。それでその中に何かわくわくするものがあったら、あなたの中に何らかの癒しの価値観の共通点があったということです。世の中に不安を感じているほとんどの人にとって、自分自身の本質は、常識を逸脱したところにあったりするのです。それが他の何かを犠牲にすることを是とするならば、戒めましょう。そうでないならば、積極的に尊重していきましょう。

癒しの根拠を探る

心地よいと思ったら、それで終わりにするのではなくて、なぜ心地よいんだろうという方に自分の意識を傾けてみて下さい。もしそれが、あなたにとって、きれいなもの、やさしいもの、可愛いもの、繊細なもの、その他諸々の癒しの要素を見出せるものであるのなら、それら1つ1つの特徴を深く吟味し、分析し、尊重し、感謝してみて下さい。自分自身の癒しの根拠や本質を、常に探り当てようとする姿勢が大切なのです。

癒しとクリエイティビティ

どんなに優しい人でも、24時間365日笑顔で人に尽くし続けるなどできるわけがありません。人はそこにいるだけでかけがえのない存在ではあるのだけれど、その喜怒哀楽の瞬間の1つ1つが尊いものなのかもしれないけれど、やはり人は自分自身のことで精一杯なので、自分自身の体そのものを使って、優しさを表現し続けることはできないのです。求めれば常にそれを得られるわけではないのです。だから人は絵を描いたり、写真を撮ったり、人形を作ったりして、その表現をキープしようとする。人間と癒しに関するクリエイティビティの源泉がそこにある気が致します。何らかの優しさを表現するもので、あなたと価値観の一致する創作物は、求めればいつもあなたを慰めることができ、求めればあなたの成長を見守ることさえするのです。人間関係だけでは補えない心の安寧を求める時、創作物の力をそこに感じることができるのです。

癒しは一生かけてやるもの

衣食住が自らの身体の成長と維持とともに一生かけてするものであるのと同様に、癒しは精神の成長とともに一生かけて行うものです。周囲は、あなた自身を癒すということについて、誰も気に留めません。中には「あなたを癒して差し上げますよ♪」なんて甘い言葉をかけてくれる人もいるかもしれませんが、そういうのって、どうせ搾取か金儲けかなにかのシステムでしょ? もしあなたが自分自身について責任を持って、癒しやワクワクすることをよく認識した上でやるべきことをやると決めたのならば、周囲の甘い誘いの真意などすぐに気がつくはずです。自分がより良く生きるということは、ある意味では、今まで誰も気に留めなかったことをやるということでもあるのです。

抑圧は解き放たれた

ほんの数十年前までは、みんなが何をすべきかが分かっていて、同じテレビ番組を見たりして、みんなが同じような方向へ向かって切磋琢磨していた気がします。本当の自分自身何て分からなくても、差し出された道をそのまま歩いていけば、ゴールが見えているような、そんな人生です。今になって、なかなか他の価値観を受け入れられなかったり、死ぬ前に色々と後悔してしまったりといった方々が多くいらっしゃるのではないかと思います。

現在、街中では可愛いものが増えました。ほんの昔にオタクと呼ばれて敬遠されていた要素などは、現在では華やかに町を飾ることができています。それらはほんの数十年前までは、戒められていたものではないかと思われます。世の中は、少しずつではあるものの、幼い頃の私たちが隠し持っていたような、心の安寧の本質を、受け入れ始めたのではないかと思っています。とはいえここ数年は、古い価値観の持ち主との戦いを強いられる場面も覚悟しなければならないでしょうけど。

「衣食足りて礼節を知る」などという諺がありますが、本当は「衣食住+癒足りて礼節を知る」だと思うのです。たとえ物質的に満たされていたとしても、もし癒しをろくに満たせないまま礼節ばかりを強要されれば、やがて抑圧が溜まってキレるなどといった、不都合なことが起きても仕方がないと思うのです。

さて、疲れた心で、たらたらと説教じみたことを書いて、ぼーっとしている、今日この頃なのでした。

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